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何が言いたいのかと言いますと、とりあえず頑張ろうってことです。




ジャンルを問わず、どのアーティストにも、ライブの前になると必ずと言って良いほどSNSで見かける「お譲りします」という文字。

その日に急用が入ったり、病気にかかってしまって行くことが困難になったり。その理由は様々で、チケットが余ってしまうという状況はいつでも・誰にでも・いくらでもあると思う。でも1人でも多くの人に、空いたその空間で自分の代わりに観てもらいたいために(その感情の中には自分自身のチケット代をその人から「返金してもらう」という意味も含めてかもしれないが)、「お譲りします」という文字を付けて、情報を発信するものなのだと私は思う。

この「お譲りします」という言葉と同じ部類に、「定価でのお譲りは考えておりません」「即決あります」という言葉が存在する。はたから見たらコレらはただの行為の一環なのかもしれない。だが、私はこの言葉に引っかかりを持ち続けている。

私が推しているとある女性芸能人が、「チケットはただの1枚の紙きれだけど、それはたった1枚の神きれ」という意味の言葉を使っていて、私はそれに強く感銘を受けた。そうなのだ。その紙はただの紙であり、また、いろんな偶然が重なり合ってできた奇跡の塊なのだ、と。

簡単に買えない、紙きれであり、神きれ。

自分で汗水流して働いて稼いだり、何かを我慢して貯めたりして、お金を用意して。無数の確率から「当選」に選ばれて。ソコにたどり着くまでにいろんな感情が重なるものでもあると私は思う。だからこそ、なんというか…先述した言葉を見るたびに言葉では説明できない やりきれない感情が私の中に生まれてしまう。

まあ、この感情を持つことだったり、これらの言葉以外にも在る「譲ってもらったので定価不可」という言葉にも、いやいや、それ理由にならなくね?…という感情を持っても良いと思ってるのは、もしかしたら私だけなのかもしれないが。


神きれが紙きれ以下として、ビジネスされること。それは、どのアーティストでも存在する、「れっきとしたビジネス」なのかもしれない。そりゃお金はあればある分「裕福なコト」が出来るし、より多額を支払えばその空間に居るコト自体は可能だ。でも、「お金のお金としての価値」と「その空間の価値」が下がることが本当に悔しい。

もちろん、「譲ること」自体を批判するわけではない。先述したように「譲る状態になってしまうこと」は、いつでも・誰にでも・いくらでも存在するのだから。これは誤解しないでいただけるとありがたい。

それを踏まえた上で、これは個人の価値観の違いがある以上答えも出ないし、答えとしては私の個人の価値観でしかないが、どうかその紙きれが神きれのままでいてほしいと願うばかりである。









ノシ