塗り替えられて上書きされるモノだしそのまま残るモノでもあるから、人生って良いモノなのかもね。




"オタク"や"ファン"という単語には、いろんな意味が込められていると思う。その意味は人それぞれ違って十人十色なのが当たり前で、でもそのどこかに少しずつ共通するものがあるんだと思う。


私がこのアカウントを作る前に存在していた、いわゆる"オタアカ"と呼ばれるソレで学んだ答えは、「オタクという人=ひとつの事柄に対して、義務や任務、犠牲といった たくさんのモノを背負う」ということだった。それが派生したひとつひとつの感情に対して一種のギャップを感じ、アカウントを削除してしまったわけなのだが、その決断に至るまでに過ぎ去った過去のメモリーカードのファイルの「全て」は読み込む必要は 今は無い気がするし、きっと読み込めたときには 私は笑えているんだと思う。

ただ、あのときは、身体にも心にも、次に刺さるナイフの隙間はどこにも無かった上に、刺さったこのナイフたちを誰か抜いてくれ、とも言えなかった。だって、私は、いわゆる「一途」という言葉で変換される人間ではないからだ。
ただ"すき"なだけなのに、それは「違法行為」として認知されていて。私はそれが辛かったし、苦しかったし、悔しかった。


そんな人間がなんでこういったアカウントを再び作ったのかというと、まあいろんなことがあったのだが。
ソレを一言でいうなら、「我慢したってすきなことに変わりはない」「人間なんだから生きてりゃその日々がある」「選んだ答えとイコールは繋がらない」という感情に辿り着いたからである。他人からどんだけ嫌いと言われようが"違法"と言われようが、彼らと彼らの仲間がすきなわけで…というより、どのジャンルにおいても"嫌い"なひとがあまりいないわけで。また、そんな人間でも日々の出来事や生活の優先順位があるわけで。それが「私」という人間なのだ、という答えが出たのである。

そして、この答えを理解してくださる人と出会えた事が、私にとってかなり大きい。こんなやつ、きっと異色な存在なのに。本当に、感謝しかない。


現在の、情報として流れ出るモノは、どうも心を痛くさせるために造られているらしい。悪目立ちはウイルスのごとく瞬く間に広がってしまう。そしてそれに怯え、呆れ、"ファン"としての価値を"下げられる"。
しかし、ソレらが真っ先に流れ出てしまうがために、本来広がってゆくべきものがダムで堰き止められているのも現実だと感じる。その光景に出会ったり知ったりするからこそ、ファンでいることが悪いことばかりじゃないと私は思う。広がるべきことがちゃんと広がるために、ひとつひとつ 自分の行動には責任を持たなければならないんだということを深く実感している。例えば、整列乗車とか、ゴミの処理とか…もしかしたらそんな「誰も気に留めないのかもしれない小さなこと」から「コツコツと」始めるべきなのだろうなと、改めて思う。










ノシ