会いに「いきました」。


すきなひとに会いに。



……という表現を使うのは、初めてな気がする。



コンサートや舞台、国際大会。

その場所に行くときはいつも「観に行く」「聴きに行く」という感覚だから。

「会いにいく」ではないから。



だから、「すきな人に会いに」いくという言葉を使って良い場所に自分を動かしたのは、初めてな気がする。




巷を騒がせるゲイノウジンだって、その中身は、にんげん。


だから生きているし、だからこそ、すごいんだと思う。



名前も顔も知らない人からの偶像崇拝を押し付けられて、その中にいる自分と戦い、なおかつ自分の中の自分を受け入れてもらえるようにする世界。


……そんな恐ろしい世界だからこそ、そのひとのファンと呼ばれるひとは、その姿を見て、自分を生きさせていこうとするのかもしれない。



かくいう私も、すきなひとの本来の人生を殺しながら、そのひとのことを好きでいるのだ。


ほんとうに、残酷なことをしている。

だってそのひとのその人生の、そのひとの本当にしたい時間を奪って、なおかつ そのひとを殺しているのだから。





だからこそ、びっくりしてしまった。




目の前にあらわれたすきなひとは、恐ろしいくらいに、そのまんまでいたから。




アイドルをしている上で感情を捨てた

と言ったひとだっているのに。



恐ろしいくらい、斉藤優里さんは、そのまんまだった。



もちろん、私は、本物の斉藤優里さんのことを、何ひとつ知らない。

だからきっと好きな食べ物だって違うんだろうし。

得意料理とか、プライベートの生活も、仲間内でのことだって、本当はきっと違うものなのだと思う。また、それを知る権利もない。



私が知っているのは、乃木坂46のメンバーオーディションに合格して、乃木坂46のメンバーとしてデビューした本人が作り上げた「斉藤優里」でしかない。




だけど、それすらも、「本来の斉藤優里」なのではないか、とすら、思えてしまった時間だった。 




そして、それ以上に、



どんなメイクをしようか。

どんな服を着て行こうか。

少しでも痩せてから会いたい。



……と、自分が自分としての人生を作る上で、どこかで捨てた感情を抱いていて。





すきなひとの存在は、恐ろしい。

だからこそ美しくて、すごいことなのだと、思ったのである。





枚数を多く買えるわけでもない。

なんなら抽選にも外れる。

認知されるようなこともしていない。

なんなら用意してた言葉すら言えない。



ただ、すきなひとに対して、恥がないように生きていたい。


そんなファンでありたい、と、私は、思う。











東京ビッグサイト幕張メッセの帰りの電車で、そんなことを考えた。










ただそれだけの話。










ノシ